Furusawa Keisuke's blog

政治から映画、アニメ、将棋まで幅広く語ります。

書評『ファシズムの正体』

本ブログではこれまで、ファシズムに関する著作をいくつか取り上げてきた。

このうち、藤沢道郎さんの『ファシズムの誕生――ムッソリーニのローマ進軍』とヴルピッタさんの『ムッソリーニ』は、イタリアン・ファシズムを知るための教材としてうってつけであったし、長谷川公昭さんの『世界ファシスト列伝』は独伊だけでなく世界各国のファシズム政権を取り上げた名著であった。

だがもうちょっと日本の初学者向けに、ムッソリーニの生涯やファシズムの本質、さらには戦前日本のいわゆる「天皇ファシズム」とイタリアのそれとの相違などについて、分かりやすく書かれた新書サイズの本はないものかと思ってきた。

そしたら、イイ本が出てきた(w)。それが、今回ご紹介する『ファシズムの正体』集英社インターナショナルだ。

著者は、やっぱりこの人(w)、本ブログではもはやおなじみ、作家の佐藤優さんである。

 

佐藤さんはまず、日本人がファシズムについて十分な知識を有していないことを問題視する。

日本人が「ファシズム」と聞いて思い浮かべるのは、ドイツのナチズムと日本のいわゆる天皇ファシズムである。ところがファシズムは、本来はイタリアが生み出した思想だったのだ。日本人はそのことすらよく理解できていないし、そもそもイタリアの近現代史からして知識がない。

佐藤さんはそこで、まず第1章、第2章を費やして、イタリア近現代史ムッソリーニの生涯、そしてファシスト政権の興亡について説明している。続いて第3、4、5章にて、お隣のナチズムと比較することで、イタリアン・ファシズム独自の特徴を指摘していくのである。

このあたりの佐藤さんの解説は、日本の読者にとっては驚きの連続なのではあるまいか。

例えば、ファシズム民族主義ではないファシストは、イタリア民族は「である」(be)ものではなく「なる」(become)ものだと考える。イタリア人という民族がはじめから存在するのではなく、イタリア人になろう、イタリア国家のために貢献しよう、という人々の意志があってはじめて、イタリア民族が誕生するというのだ。

僕は、クリント・イーストウッド監督の映画『グラン・トリノ』を思い出す。

イーストウッド本人が演じる主人公のレイシスト白人は、アメリカン・スピリットの象徴ともいうべきアメ車、グラン・トリノを愛車としている。だが息子夫婦はじめ周りの連中は日本車に乗っていて(w)グラン・トリノなど歯牙にもかけない。そんななか、主人公のグラン・トリノのことを唯一カッコいいと言ってくれたのが、お隣に住むアジア系の移民の少年であった。主人公は最終的に偏狭なレイシズムを克服し、この少年に愛車を寄贈する。本作はかくして、アメリカン・スピリットの継承者に人種は関係ないことを宣言し、その幕を下ろすのである。

意外なことに、イタリアン・ファシズムもこの考えに立っていたのだ。

佐藤さんはこのほかにも、ナチズムと異なり、イタリアン・ファシズムは障害者を保護していたことなど(96頁)、おどろくべき話を明らかにしている。

 

佐藤さんは、イタリアン・ファシズムを支えた思想として、ヴィルフレド・パレートの経済学や、芸術運動「未来派」などを指摘していく。

その未来派を理解するための教材として、宮崎駿監督『風たちぬ』を持ち出すのは、とても分かりやすい。佐藤さんは本作の、テクノロジーに美を見出すところや自然を生きものに喩えるその世界感などが、イタリアの未来派に通ずる、と指摘している。

≪有名な話ですが、あの映画(註:『風立ちぬ』のこと)に登場する九六式戦闘機や零戦などのプロペラ音をはじめ、蒸気機関車の蒸気、車のエンジン音などの効果音は、すべて人間の声でつくられています。このような「機械を生命的に見る感覚」は、未来派の「生の感情」にたいへん近いものです。

 さらに言えば、「美しい飛行機をつくる」という美学も、未来派の反合理的な感覚と似ています。ソ連アメリカの飛行機が不格好だったのは、エンジンが強力だったからです。日本の飛行機をスマートで軽くつくらざるをえなかったのは、エンジン技術が劣っていたからですが、それを美学の問題として捉える点で、反啓蒙主義的・反合理主義的なロマン主義に接近する。≫(113‐114頁)

佐藤さんのこの指摘に、僕は思わず「なるほど!」と叫んでしまったw(;^_^A

映画『ニシノユキヒコの恋と冒険』天皇制のメタファーだと指摘するなど、佐藤さんのサブカルチャー評は意外性に富んでいて、僕にはとても面白く感じられる。

 

さて、本著にて、佐藤さんはファシズムを肯定しているのだろうか?

もちろん、そうではない。むしろ逆だ。佐藤さんは、本著を通じてファシズムの危険性に警鐘を鳴らそうとしているのである。

佐藤さんは、ファシズムに反対するためにこそ、まずはそのファシズムについて知らなければならない、と言う。ファシズムについて我々が無知であると、たとえば日本が極端な格差社会になったときに、格差是正と国民の平等を訴えるファシズムが登場すると、国民はこぞってそれを支持してしまうおそれがある。

佐藤さんは、ファシズムには格差社会などの問題を乗り越える魅力がある、と正直に認める。そのうえで、同時にファシズムは問題も抱えているのだと指摘するのだ。こうすることで、彼は日本の読者にファシズムへの免疫をつけさせようとしているのである。

 

話を本著に戻すとしよう。第6章以降は、話題が日本のいわゆる天皇ファシズムへと移る。天皇ファシズムは、本当にファシズムだったのだろうか。

ここで佐藤さんが参照するのが、片山杜秀さんの『未完のファシズム』である。

戦前の日本では憲法の規定により、権力があまりに分散しすぎていたため、ファシズムになり損ねた「未完のファシズム」なる奇妙な現象が見られた。これが、いわゆる天皇ファシズムの正体である。

民族性というものは、なかなかに変わりにくい。佐藤さんは、今後の日本でもイタリア型の本物のファシズムではなく、この未完のファシズムが再登場するおそれがあると見ているようだ。

もちろん、“未完の”ファシズムだから大丈夫なのかといえば、決してそんなことはない。本物のファシズムとはまた別に、未完のファシズムには未完のファシズムなりの、危険性がある、と佐藤さんは言う。

それは例えば、ちょっとでも想定外の事態が発生すると、上層部が判断を現場に丸投げしてしまう、といったかたちであらわれる。

まるで昨今の、東京五輪を巡るドタバタを見ているかのようだ。我々は、本家本元のファシズム同様、この未完のファシズムも恐れなくてはいけないのである。あ~、メンドクサイ(w

 

僕が佐藤さんの本を読み慣れているせいかもしれないが、本著での佐藤さんの説明は、とても分かりやすい。どうか皆さんも、本著を手に取って読んでみてほしい。そして、そもそもファシズムとは何か、という点について、ぜひ基礎教養を身につけてほしい。