Furusawa Keisuke's blog

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書評『ガザーリー』

本ブログでは昨秋、イスラーム学者・井筒俊彦さんの『イスラーム思想史』という本を取り上げた。

この本のなかでひときわ僕の印象に残ったのが、ガザーリーという中世の神学者であった。

このガザーリー、哲学批判を展開することによって「東方イスラーム哲学」なる当時の哲学の一派を終焉へと導いたのだという。では反知性主義者だったのかというと、どうやらそういうわけでもなかったようで、むしろ徹底的に哲学を勉強したうえで哲学批判を展開した人なのだ、と『イスラーム思想史』には書かれていた。

う~む、ガザーリー。いったい、いかなる人物だったのだろう。

僕はこの人のことが、妙に気にかかっていた。

 

というわけで、本日取り上げる本は『ガザーリー 古典スンナ派思想の完成者』山川出版社である。

本著は、歴史教科書で有名な山川出版社の出している「世界史リブレット」シリーズのなかの一冊。このほかに「日本史リブレット」なるシリーズもあり、以前取り上げた『岡倉天心と大川周明』がこのシリーズの本であった。

ページ数が少ないわりには、意外と中身が充実しているのが特徴だ。

 

本著の主人公・ガザーリーは、1058年生まれの、イスラーム神学者である。

とても聡明な人物だったようで、33歳のときに、バグダードにあるニザーミーヤ学院という教育機関の教授に任命されたという。……まいったなぁ、僕と同年齢でもう教授かよ……w(;^ω^)

もっとも、彼の生涯は決して順風満帆だったわけではない。彼は青年期に、ある深刻な精神的危機を経験したのだという。

本著によると、≪彼は、感覚より上位の判定者として理性があるように、理性よりも上位の判定者が存在するのではないかと考え、理性に対して懐疑的になった≫(6-7頁)というのが、その精神的危機の原因である。お、おう……。なんというか、悩みの内容からして、もはや我々常人とは次元が違う、といった印象だ(^▽^;)

 

さて、ニザーミーヤ学院にて、彼は300人もの学生を相手に、法学や神学の講義をしていたという。ところが彼は同時に、講義や著述活動などの合間を縫って、哲学の研究も開始したのだ。

哲学が好きだったから? 

違う。むしろ逆だ。彼は、哲学を批判する必要性を感じ、そのために独学で哲学を勉強したのである。そうして、哲学批判の書『哲学者の自己矛盾』を著したのだ。

実を言うと彼はその前に、まず哲学の概説書『哲学者の意図』を著しており、そのうえで今度は哲学の批判書『~自己矛盾』を書いたのだ。このうち、ヨーロッパでは後者は伝わらず、哲学を解説する前者だけが紹介された。そのせいで、ヨーロッパではガザーリーはむしろ哲学者だと誤解されたのだという。

なんとも皮肉な話だが、それだけ彼の哲学理解が深いものだった、ということだ。

ある思想を批判するにあたって、それをろくに理解することなく、批判、というか罵倒してしまうことは、現代でもとても多い。ガザーリーは、しかしながらそうではなかったのだ。彼はまず、問題となっている思想を徹底的に理解し、そのうえで批判を展開した。今日の我々も見習うべき、フェアな態度と言えるだろう。

 

ガザーリーは、アシュアリー学派と呼ばれる神学の一派を学んだ。このアシュアリー学派が採用していたのが、原子論である。

と言っても、今日の科学でいうところの原子論とはまた異なるようだ。この時代の原子論とは、≪世界は、目に見える物体であろうと、不可視界や人間霊魂といった目に見えない霊的なものであろうと、すべて原子から成っている。原子は一瞬しか持続できないため、瞬間ごとに神によって創造される。したがって、原因と結果の関係もなくなってしまい、因果関係があるかのように見える現象も、実際は神によってばらばらに想像されている≫(36頁)と考える思想であった。

このように因果論を否定すると、何に都合が良いか。

クルアーンに記されている奇蹟を説明するのに都合が良いのである。

この世はつねに神によって創造されつづけている以上、神が望めば奇蹟なんて簡単に起こせる、というわけなのだ。「なるほど、こういう考え方があったのか」と目からウロコが落ちる思いがした。

僕の記憶が確かならば、曹洞宗の開祖・道元禅師も、たしか『正法眼蔵』にて同じようなアイデア、つまり世界は絶えず再創造されている、という話をしていたはずである(違ってたらごめんなさいねw)

 

さて、上述のとおり若くして、今でいうところの大学教員のポストをめでたくゲットしたガザーリーであったが、37歳のとき、彼はなんと学院での仕事を辞し、家族すら棄てて(!)、突如放浪の旅に出てしまったというのだ。

えええええええええ!!!???

本著によると≪当時のガザーリーは、一点の疑念も残らないほどの「確実な知識」つまり信仰の確信を求めて、神学・哲学・シーア派を検討していったが、いずれも満足できなかった≫(48頁)

そこで彼が着目したのが、スーフィズムであった。

スーフィズムとは何か。『イスラーム思想史』評でも簡単に解説したが、たとえばスカートみたいな衣装を着て、くるくる回りつづけることによってトランス状態に達し、「神との合一」(Unio Mystica)を果たす、というイスラームの一派のことである――どこか、禅の修行に似ていなくもない

ガザーリーは、放浪の旅を通じてこのスーフィズムの修行や実践を行い、スーフィズムを採り入れた著作を残したのであった。

当時のスーフィースーフィズムを実践する人のこと)のなかにはイスラームの戒律を無視した、日本風に言えば破戒僧っぽい人が多く、そのせいでスーフィズムは主にウラマーイスラーム法学者)たちの間で白眼視されていたという。

ガザーリーは、スーフィズムの考えを採り入れつつも、同時に従来のイスラームの戒律も尊重し、中庸の道を確立したのであった。

ガザーリーの後期の代表作『宗教諸学の再興』では、まずイスラームの戒律について語られ、次に日常生活のあるべき過ごし方、そして心を浄化して神に近づいていく方法――これがつまりスーフィズムの考えを採り入れた部分なのだろう――について語られている。

本著でもこの『~再興』の一部分が引用されている。それを読むと、スーフィズムの修行のやり方について、彼がかなり細かいところまで指示していることが分かる。

なんとなく、道元禅師の『正法眼蔵』に似ているな、と僕は思った。道元禅師もきわめて几帳面な性格であり、洗顔の仕方、食事のとり方まで実に細かく指示しているからである。

……最近、曹洞宗の人たちの本を多く読んでいるせいかどうかは分からないが、僕にはどうしてもスーフィズムと禅がだぶって見えるのである。

 

本著終章では、11世紀人であるガザーリーの思想が、千年経った今日でもなお、イスラーム世界にて強い影響力を及ぼしていることが述べられている。

僕も本著を読んで、ガザーリーはとても魅力的な人物だと思った。

彼に関する本、あるいは彼自身が書いた本を、もっと読んでみたい、そう強く思ったのだった。

 

ガザーリー―古典スンナ派思想の完成者 (世界史リブレット人)

ガザーリー―古典スンナ派思想の完成者 (世界史リブレット人)