Furusawa Keisuke's blog

政治から映画、アニメ、将棋まで幅広く語ります。

書評『イタリア合理主義』

2003年、僕はイタリアを旅行した。

ローマの空港に降り立った際、なんだかカリフォルニアと似ているな、と感じた。ともに地中海性気候だからだろう。ところがローマの中心部に至ると、さすがにその考えを改めざるをえなかった。

なにせ、古代ローマ時代につくられたと思しき水道橋がいまだにそびえ立っており、その下をごく普通に自動車が通過していくのだ! さすがは“永遠の都”だ、と驚嘆した。

そんな永遠の都と、一見不釣り合いに思われたのが、ローマの中央駅・テルミニ駅である。歴史の重みを感じさせる古代ローマの建築物や、壮麗なヴァチカンの建物とは対照的に、ここだけがシンプルなモダン建築なのだ。

「アレ? これは一体どういうことだろう?」と当時は違和感を覚えたものだった。

後になって、この駅はファシズム時代に建設されたことを知るに至った。

 

本日取り上げる本は、『イタリア合理主義 ファシズム/アンチファシズムの思想・人・運動』鹿島出版会である。

ファシズム期におけるイタリアの建築をテーマとした書籍だ。著者は、イタリア建築の研究者である、北川佳子さん。北川景子ではない

本ブログではこれまで、イタリアン・ファシズムに関する著作を多く取り上げてきた。本著もそのひとつといえようが、ファシズム期のイタリア建築に関するかなり専門的な内容の著作なので、たとえば先日取り上げた佐藤優さん『ファシズムの正体』のような入門書か、と期待して読むと、面食らうかもしれない(w

ある程度、イタリアン・ファシズムや建築史、美術史について基礎教養を踏まえたうえで、本著を読むことをおすすめしたい――と偉そうなことを言っているけど、僕も建築にはさほど明るくないので本著は正直難しかったw(;^_^A

ただし幸いにも、というべきか、本著は写真がとても充実しているので、建築好きな人ならば、写真を眺めているだけでも楽しめるかもしれない。

 

本著では、おもに1920年代から30年代にかけて活躍したイタリアの建築家たちが数多く登場する。

以前紹介した『建築家ムッソリーニ』でも登場したピアチェンティーニもそのひとりだが、本著では意外にも、アントニオ・グラムシの建築に関する考え方が紹介されていて興味深い。

グラムシといえば、ムッソリーニと同時代の、マルクス主義の思想家である。ムッソリーニやイタリアン・ファシズムに関する書籍では、必ずと言っていいほど登場する、イタリア左翼きっての理論家である。

そんなグラムシは、しかしながらファシストにとっては、「敵」というよりかはむしろ「ライバル」と呼んだ方が適切なのかもしれない。単に敵対しているだけなのではなく、説明が難しいのだが、“ほぼ同じゴール”へと向かってファシストとは別のルートを走っている「競争相手」のように、僕には思えるからだ。

そんなグラムシは、≪建築作品の芸術性を扱うのではなく、建築の計画から完成までの過程で行われる建築家とその他の職業の人々との共同作業について、その社会的意義を考察≫(47頁)したのだという。つまり建物そのものではなく、皆で建物をつくっていく、そのプロセスこそが大事だと考えたわけだ。

なるほど、グラムシはやっぱり面白いことを言うな、と僕は思った。周知のようにグラムシは、ヘゲモニー――強制や恐怖による権力支配とは異なる、人々の自発的な合意にもとづく権力掌握――という概念を提唱した論者として、一般に知られている。彼の建築に関する上のような見方にも、そうしたヘゲモニー概念が影を落としている、と思うのは僕だけだろうか。

 

この他にも、本著では興味深い話がいくつもある。以下に、僕が個人的に面白いと思った箇所をひとつ挙げるとしよう。

当時のイタリアの建築家たちの間では、「イタリア性」、つまり「イタリアらしさ」とは何か、という議論が常々交わされていたらしい。これについて、カッターネオという建築家はこう考えたのだという。

≪カッターネオは、建築における‘イタリア性’という議論に関しては、まず過去の偉大な建築は、イタリアにおいて普遍性を追求することでイタリア的たりえたことを述べる。≫(152頁)

我々日本人にはいまいちピンとこない箇所だが、文中の「イタリア性」を「日本らしさ」と置き換えると、にわかに分かりやすくなるのではないか。

「日本らしさ」とは何か。サムライとかゲイシャとかニンジャとか? いや、ここでは建築の話、たとえば五重塔を「日本らしい」建築物だとしよう。だが、五重塔を建てた人は「日本らしい建物をつくろう!」と思って五重塔を建てたのだろうか?

そうではないだろう。彼はあくまで普遍性を追求した結果、五重塔を建設するに至ったのである。

「イタリア性」とか「日本らしさ」というのは、意識してつくりだすものではない。そういうのを考えずに普遍性を追求してつくった建物が“結果的に”イタリア性、日本らしさを帯びるのである。

ここでカッターネオという人が言わんとしているのは、要するにそういうことだろう(違ってたらごめんなさいねw)。それは僕には、とても納得できる議論である。

 

ファシズム時代の建築家というと、皆体制に従順だったのかと思ってしまう。だが本著を読むと、彼らは意外にも個性の強い人たちばかりで、必ずしも全員がファシズムを熱心に支持していたわけではない、ということに気づかされる。

彼らは表向きはファシストであるかのように振る舞い、ファシスト政権の文化、芸術政策のもとで活動をつづけたものの、心の奥底では彼らの活動を制限する政府の政策に少なからず反撥をもっていたはずだ――そう著者の北川さんは書いている。

ファシズム期の建築とは、そんな体制と芸術家たちとの、水面下の葛藤の時代でもあったのである。

どうだろう、皆さんのイタリアン・ファシズムのイメージが、また少し変わったのではあるまいか?

 

イタリア合理主義―ファシズム/アンチファシズムの思想・人・運動

イタリア合理主義―ファシズム/アンチファシズムの思想・人・運動