Furusawa Keisuke's blog

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書評『<戦後思想>入門講義 丸山眞男と吉本隆明』

本ブログではこれまで、哲学者・仲正昌樹さんの著作を複数取り上げてきた。

本日ご紹介する本は、そんな仲正さんの講義録『<戦後思想>入門講義 丸山眞男吉本隆明(作品社)である。

作品社のこの『入門講義』シリーズは比較的人気のようで(w)、本著のほかにも、アーレントを取り上げたものベンヤミンを取り上げたものデリダを取り上げたものなど複数ある。

いずれも、仲正さんが行った講義を活字化したものであるため、比較的平易な話し言葉で書かれており、読みやすい。まるで読者の眼前で“バーチャル仲正先生”(w)が語りかけているかのような臨場感がある。

そこが、『入門講義』シリーズの魅力であり、人気の秘訣なのだろう。

 

さて、タイトルからも分かるとおり、本著は戦後日本のふたりの偉大な思想家、丸山眞男(1914‐1996)吉本隆明(1924‐2012)を取り上げている。

仲正さんは、丸山からは『忠誠と反逆』というテキストを、吉本からは、かの有名な『共同幻想論』をそれぞれ取り上げ、どちらにも3章を費やして解説している。

 

まずは『忠誠と反逆』から見ていこう。丸山が、幕末・明治の動乱期の日本において近代化のカギを握っていた存在として注目するのは、武士、明治以降で言えば士族である。丸山はこの士族こそ、日本人にとっての政治的主体のモデルとなりえたかもしれない存在だと考えたのだ。

だが、「なりえたかもしれない」とわざわざ過去形で語るということは、現実にはダメだった、ということである。

なぜか。それが本著前半におけるテーマのひとつだ。

 

その前に、興味深いのは、ほかならぬ武士こそが近代的主体になりえた、と丸山はどうして考えたのか、という点である。

武士は、今日の我々の想像に反して、必ずしも主君に絶対的に忠誠を誓うだけではなかったという。むしろ、忠誠を誓うがゆえに、主君が武士としての道から外れたときには、あえて諫めるのが臣下の(権利でなく)義務である、とさえ考えられていたのだ。

こうした発想が、実は近代的主体につながりうるのである。

我々は、「愛国」と聞くとつい、国(=政府)に忠誠を誓うことだとばかり思い込んでしまう。

だが、ことはそう単純ではない。先ほどの臣下の諫言の話と同様、国を愛するがゆえに、政府が政府としての道から外れたときには、あえてこれに抗議するのが愛国者(権利でなく)義務である、という発想だって成り立ちうるからだ。

実際、明治の自由民権運動の担い手には士族が多く、彼らはまさにこのようなメンタリティーに基づいて、時の藩閥政府に抗議していたのである。

なるほどなぁ、とこの箇所を読んで僕はすっかり感心してしまった。主体(subject)というのは皮肉にも、なにか上位にある存在に強く従属(be subject to)することによってこそ、育まれるものだったのだ。これは、僕にとっては新鮮な驚きであった。

 

さて、せっかくこのような伝統があったにもかかわらず、どうして日本では近代的主体が確立されなかったのだろう?

詳しくは……本著を読んでね♪ と言いたいところだが、「さんざん焦らしておいてソレかよっ!」とツッコまれそうなので、簡単に説明しておこう(;^ω^)

近代に入ると武士階級はその特権を失い、消滅してしまった。その後に、地主や教師、警官などが中間的な階層として新たに台頭してきたが、彼らは体制順応的になってしまい、政府に抗うどころか、民衆と国家の官僚機構を媒介する役割を果たすようになった。

このことが、どうやら近代的主体がスポイルされた原因のようである。

 

さて、以上は丸山の『忠誠と反逆』の話。本著後半からはいよいよ、吉本の『共同幻想論』の話となる。こちらでは先程とはうってかわって、民俗学的な話が続く。

(この当時の)吉本の文章はとても分かりにくいのだが、彼が『共同幻想論』にて言いたかったことは要するに、この社会は幻想によってこそ支えられている、というものだ。その幻想も三種類あり、吉本はそれぞれ「自己幻想」「対幻想」「共同幻想」と名づけている。

自己幻想とは個人が自分自身について抱く幻想のことであり、対幻想とはカップ――のほかにも親しい家族も含まれるらしい――を統制する幻想、そして共同幻想とは、国家や法を形成している大きな共同体を統制する幻想のことである。

これら幻想がどのように立ち現れてきたか、吉本は『古事記』や『遠野物語』など、神話や民俗学の観点から分析していく。『共同幻想論』とは、要するにそういう本なのだ。

 

周知のとおり、吉本は戦後の新左翼にとっての思想的リーダーともいうべき存在であった。

しかし、本著を読んで僕は、彼の『共同幻想論』はむしろ保守の文脈から読み直すことが可能ではないか、とふと考えたのだ。

「幻想」というからには、それは解体することが可能なのだ、と皆さん思われるかもしれない。だが『共同幻想論』のなかで、吉本はむしろ、人間が共同幻想から完全に解放されることは不可能……というのが言いすぎなら、困難だということを言いたかったのではなかったか、と僕には思われるのである。

仲正さんも解説しているとおり≪「幻想」といっても、本当に宙から湧いて出るのではなくて、それが生じる何らかの現実的基盤があり、それが持続して継承されていくのは、人々のアイデンティティや共同体を維持していくうえで一定の役割を果たしている≫(248頁)からだ。

国民国家(nation state)なんてものは虚構にすぎない、ということは、もはや右派ですら前提とするようになっている。今日における対立は、虚構であるから解体すべきなのか、それとも虚構であっても社会を回していくためにあえてそれを維持すべきなのか、という点であろう。

僕は後者だ。そして『共同幻想論』からは意外にも、後者を支持するメッセージを、僕は強く感じるのである。

 

それにしても仲正さんの解説は分かりやすい。

丸山も吉本も、とくに吉本はかなり分かりづらい文章を書くのだが、仲正さんは「ここで彼が言いたいのは要するにこういうことでしょう」と実に的確に言葉を補って、分かりやすく解説してくれるのである。

本著からは、彼の教師としての能力の高さを垣間見ることができる――彼にはもうひとつ、語学の高い才能もあるのだが、本著はあいにく日本の思想家に関する著作であるため、今回は語学の出番はない。残念だ(w

 

最後に……ひとつだけ不満をw(;^_^A

本著末尾にて仲正さんのプロフィールと写真が掲載されているのだが、それを見ると著者近影が、仲正さんがホワイトボードのほうを向いている写真となっている。これでは肝心の彼の顔が見えないではないか!

ちょっと、作品社さん! 著者近影なんだからちゃんと顔が映っているところを見せないとダメでしょっ!(w

 

〈戦後思想〉入門講義――丸山眞男と吉本隆明

〈戦後思想〉入門講義――丸山眞男と吉本隆明