Furusawa Keisuke's blog

政治から映画、アニメ、将棋まで幅広く語ります。

書評『渡辺京二』

本ブログではこれまで、戦前の右翼に関する本を多数執筆した“マツケン”こと評論家の松本健一さん(1946‐2014)の著作を取り上げてきた。

そんな松本さんにとってのライバルともいえる存在が、評論家の渡辺京二さんである。

興味対象が近いふたりの違いを酒にたとえるなら、こうだ。

松本さんの文章は、上質な日本酒に似ている。まるで水のようにさらさらとしていて、飲みやすいのだ。

一方、渡辺さんの文章はというと……さながら高級ワイン、とでもいったところか(w

ワイン通の人なら分かるかと思うが、値段の高いワインは、必ずしもおいしくはない。ソムリエによっては、「どぶの匂い」や「枯れ葉の匂い」がすると表現することさえある(w 

渡辺さんの文章もそれと同じだ。要するに、読みにくいw(;^ω^)

それなので、これまで渡辺京二という評論家にはどうしても「とっつきにくい」という印象を抱いていた。だがこのたび、とても素晴らしい本に出会うことができた。

それが今回ご紹介する、タイトルもずばり『渡辺京二(言視舎)である。渡辺さんの評伝だ。

著者は、評論家の三浦小太郎さん。

 

本著は、渡辺さんの少年時代から描いていく。渡辺さんは、1930年生まれ。少年期を満洲・大連にて過ごした。

当時の大連はとてもコスモポリタンで、近代的で、それゆえに人工的な都市だったという。「近代」が純粋培養されたような都市だったのだ。

渡辺さんは、しかしながら少年期を過ごしたその街に、かえって反発を抱くようになる。そして近代そのものへの違和感を、しだいに強めていったのだ。

戦後、日本へと引き上げてきた彼は、日本共産党に入党、左翼活動を開始する。だが結核を患い、入院。病院にて、市井の人々と同じ部屋で寝泊まりするうちに、彼は本当の意味での「民衆」がどのような存在なのかを身をもって体験することとなる。彼はそこで、従来の左翼運動がいかに民衆から遊離した、観念的なものにすぎなかったかを悟ったのだ。

今日我々が知る反近代の思想家・渡辺京二は、まさにこのとき産声をあげたのである。

 

そこから先、著者の三浦さんは、渡辺さんの著作を順々に解説していく。渡辺さんが積極的にコミットした水俣病患者救済運動に関する本から、戦前の右翼思想家・活動家に関する本まで、刊行順に紹介していくのだ。

三浦さんの文体は終始格調高く、渡辺さんの文とは違ってとても分かりやすい。

 

本著のおかげで、ひとつ分かったことがある。

僕は以前、渡辺さんの著作『ドストエフスキイの政治思想』を本ブログにて取り上げたことがある。

露土戦争に熱狂する当時のロシアの民衆を、ドストエフスキーは「全人類への利益と愛と奉仕」を目的とする自己犠牲の心からのものであり、それが民衆というものなのだ、としてあえてこれを擁護した――そんなドストエフスキーを、渡辺さんはこれまた擁護した。

これには困惑させられた。いくらなんでも戦争を「全人類への利益と愛と奉仕」だとして肯定する? しかもそれが自己犠牲の心からのもの? 何コレ、意味わかんない、と。

当時の僕の書いた不出来な書評を見るにつけ、あのころの困惑ぶりが思いおこされるw(;^_^A

 

本著のおかげで、ドストエフスキーが、そして渡辺さんが言いたかったことが、ようやく分かってきた。

ドストエフスキーは、西欧列強によってロシアに押しつけられた主権国家体制、もっといえば近代社会そのもののなかに欺瞞を見出し、これに反対したかったのだ。

平和というのは、なるほど一見すると素晴らしいもののように思える。が、実のところそれは欺瞞に満ち満ちた体制を黙認し、それに従うことに他ならないのではないか。近代資本主義というその体制のもとでは、日夜、労働者たちが搾取され、命を落としている。それでもなお、その「平和」は肯定されるべきなのか。

それよりかはむしろ、そんな「平和」を打倒すべく戦争に打って出ることのほうが、かえって人道的なのではないか。そのほうがよっぽど「全人類への利益と愛と奉仕」になるのではあるまいか。

ドストエフスキーは、そして彼をほとんど“憑依”させた渡辺さんは、そう言いたかったのだ。

 

※三浦さんはもちろん触れていないが、在特会の元代表・桜井誠さんにこのロシアの民衆と通じるものを見出したのが、文芸評論家の山崎行太郎さんであった。当時はこの意外な指摘に驚いたものだが、今思えばこれは実に慧眼であった。

 

さて、渡辺さんは、左翼だろうか、右翼だろうか。

確かに彼は共産党出身であるし、上述のとおり水俣病問題では社会運動も展開した。一般的には、彼は左翼だと理解されている。ご本人も、おそらくは左翼を名乗ることだろう。

だが本著を読んで、僕は渡辺さんこそ、本当の意味での右翼だと思った。

左翼とは何か。右翼とは何か。

私見によれば、理性を肯定し、近代社会そのものを肯定するのが左翼であり、それに反発し、近代以前の共同体に憧憬するのが右翼である。ナショナリズムは右翼の必要十分条件などではないし、もっと言えば天皇崇拝すらも必須ではないのでは、とさえ僕は思っている。

ときに科学文明の犠牲者たる水俣病患者たちにシンパシーを寄せ、ときに戦前の右翼思想家、活動家たちにもシンパシーを寄せる渡辺さんは、僕に言わせれば、完全に右翼だ。

彼こそ、この国における、今日ではもはや数少ない、本当の、最も根源的なレベルでの、そしておそらくは最後の、右翼なのだ。

 

本著のおかげで、評論家・渡辺京二という存在が、これまでよりもぐっと身近に思えるようになった。

いままで、どちらかといえば敬遠してきた感のある、彼の著作。それらに、これからは手を伸ばしてみようと今では思っている。

 

渡辺京二 (言視舎 評伝選)

渡辺京二 (言視舎 評伝選)