Furusawa Keisuke's blog

政治から映画、アニメ、将棋まで幅広く語ります。

書評『危機の宰相』

20世紀において、日本社会が最も変化したのは、いつか。

「そりゃあやっぱり、終戦でしょ」

そう多くの人が言うだろう。たしかに、ある意味ではこれは当たっている。終戦によって、この国の法体系は根本から変わったからだ。

だがそれはあくまで、マルクス主義っぽい言い方をするなら、「上部構造」にすぎないのではないか。

この国が「下部構造」、まぁ要するに根本から変わったのは、実は高度成長からではなかったか。

道路はことごとくアスファルトで舗装され、電柱は木造からコンクリートへ。民家は瓦屋根の日本建築から、西洋風へ。街にはコンビニがあふれかえり、駅前には高層ビルが林立、そのあいだを高速道路が縫うように走る。

……今日の日本では、それが「当たり前」になった。いずれも、昭和20年代までは考えられなかった光景だ。それくらい、高度成長の残した影響は、大きかった。

 

そんな高度成長を、多くの日本人は、歴史的必然によって起こった出来事だと思ってはいないだろうか。実を言うと、僕もそのひとりだった。

本日ご紹介する『危機の宰相』文藝春秋を読むと、しかしながら池田勇人という稀有な政治家がいなければ高度成長もなく、したがって今日の日本もなかったのではないか――そういう思いにとらわれる。

本著は、池田を主人公とする評伝である。

著者は、ノンフィクション作家の沢木耕太郎さん。実をいうと僕の大学の先輩でもある(w

 

本著の主人公は、三人。首相・池田と、その政策ブレーンであった元大蔵官僚の田村敏雄、そして経済学者の下村治だ。この三人には、「敗者」という共通点があった。

池田は、大病を患った。田村は、シベリアに抑留された。下村は、これまた大病を患った。そうして皆、一度は<死>を強く意識させられたのだ。

そんな彼らだったが、否、だからこそというべきか、底抜けに楽観的な性格の持ち主であったという。

面白い。僕の祖父も同じだ。

祖父も若いころ結核を患い、一度は<死>を強く意識した。しかし病も癒えて生還した彼は、持ち前の商才を活かして、家業をおおいに発展させた。

一度は<死>の一歩手前まで行ったからこそ、常人離れしたバイタリティーを発揮できたのかもしれない。

 

話を本著に戻そう。下村は、当時の日本では珍しく、マルクス経済学ではなく、ケインズ経済学の洗礼を受けた経済学者であった。

気の強い性格の持ち主だった彼は、孤軍奮闘、周囲のマル経の学者たちとがんがん論争を展開した。そんな下村に田村が着目、池田に紹介したのだという。

下村は、日本社会には経済成長の強いポテンシャルがあると考えた。一方、当時のマル経の学者たちは、日本経済の行く末に極めて悲観的であり、高度成長などあり得ないと考えていた。

どちらが正しかったかと言えば、それは皆さんご承知のとおりだ。

 

本著を読むと、日本の左翼は昔から「反成長」であったことがよく分かる。

本ブログではこれまで、現下の日本社会が抱える諸問題を解決するためには経済成長が不可欠であると主張してきた。そして、日頃から弱者の味方を自称しているはずの連中が、にもかかわらず「日本はもう成長しない」「これからはモノの豊かさより心の豊かさ」などと言って経済成長を否定するのを、ことあるごとに批判してきた。

だがそれは、なにも今に始まったことではなかった。池田たちの時代から一貫して、この国の左翼は経済成長に否定的だったのだ。

これは、とても重要な知見である。欧米では左派のほうが「もっと経済成長を!」と熱心に叫ぶ。ところが日本では、経済成長を重視してきたのはむしろ池田たちのような保守の側、もっと言えば「左っぽい右」だったのであり、当の「左」のほうはと言えば、日本国民の生活を豊かにするのにこれっぽっちも貢献してこなかったのである!

 

本著を読んでいると、当時の池田政権と今日の(第二次)安倍政権が、ある意味では「似た者同士」だということが分かってくる。

かつて大病を患った「敗者」だという点で池田と安倍は共通するし、そんな彼らが着目したのが経済だった、という点でもこれまた共通する。

沢木さんは、池田が経済に着目したのはほとんど政治家としての勘だった、と書いている。おそらく安倍も同様なのだろう。政治家の勘などという、言語化しがたい特異な感覚が、ときに国政を大きく左右する。政治は、理屈だけでは割り切れないのだということを再認識させられる。

このほか、それまで異端視されていた経済成長を重視する経済学者のグループ――かつての下村たち。今日のリフレ派――が、次第に「邪教」から「国教」へとその地位を向上させていく点や、左派が相変わらず反成長を唱えるばかりでまるで役に立たないという点も、これまた同じである。つけ加えれば、下村とリフレ派はけんかっ早い性格という点でも共通している(w

歴史は、反復するものなのだ。

 

とはいえ、異なる点も当然ある。池田は、経済こそ自らにとっての本丸だとした。安倍は、そうではない。彼にとっての本丸はあくまで憲法改正であり、経済の建て直しはそのための手段にすぎない。

こうしたふたりの微妙な、しかし決定的な違いが、たとえば消費税増税(によるデフレ脱却の失敗)といったかたちで表れているのである。これは、1960年代ではなく2018年の日本に生きている我々にとっては、大きな懸念材料だ。

 

危機の宰相 (文春文庫)

危機の宰相 (文春文庫)